こんにちは!山岸です。最近はビリビリするような寒さですね。
先日、3色パステルアートの交流会に参加しました。

3色パステルアート主催の浜端さんは「共感覚」に注目しておられて、絵(視覚)と他の感覚を組み合わせたものをテーマとされることがあります。

これまでも味(味覚)や香り(嗅覚)を3色パステルで描くテーマがありました。

今回は「音色(聴覚)を描く」

楽器の生演奏を聴いて感じた色を赤・青・黄のパステルで表現します。

演奏は「音色パステルアート」主催の磯崎真奈美さん。
https://oto8.jp/archives/1997

1曲目。ピアノ。描かれた皆さんの絵です。

同じ曲を聴いてもひとつとして、同じ絵はありません。
描き手それぞれの感覚が色になり、画になります。

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さて、こちらの絵。
1曲目を聴いて描かれたものです。

どんな印象を持たれましたか?
どんな曲を聴いて描かれた絵なのでしょうか?

こちらの絵を描いた人によると・・・

演奏の直前に
『これから1曲を30~40分間続けて演奏しますので、聴きながら絵を描いてください。
曲はシベリウスの「樅の木」です。』と紹介がありました。

が、シベリウスという作曲家も、「樅の木」という曲も知らず、それから「樅(にれ)ってどんな木だったけ?」という状態でした。

初め、流れていく曲は清らかで柔らかく、心地よい風と光を受けているようで全体にくるくる柔らかく青と黄で描いていました。

途中で、「あれ?もう繰り返しになっているのか。」と気づきました。

思っていたよりも短い曲(3~4分)を繰り返すワークなんだなと思いながら、2回目の繰り返しまでは、聴いたことのない音の重なりを色にしてなぞる感じでした。

きれいなメロディの流れ、流れの”うわべ”を追いかけて、くるくる柔らかいタッチで、青と黄を描き、ときどき白いラインを入れました。

4回目の繰り返し頃から、これまで聞き過ごしていた音が聴こえてくるように思えました。

それが濃い青い丸や、赤いゆらゆらです。
曲(音)の中に溜まっているエネルギーのように感じました。例えば、マグマのように内部で溜まりながらも、止まってはいない対流するエネルギー。
しかしマグマのように赤くはなく、静かに熱い青い情熱のエネルギー。

その青に触発された、別ものが近くにあって、それが赤いエネルギー。
青は曲の中。

赤は 「もっと響かせたい。もっと奏でたい。もっと歌いたい。もっと、もっと・・・」 という曲の外にある、ピアノのエネルギー。だから、青と赤は混ざり合ってはいない。

白い一本のラインを青へ通したのは、今は溜まっている青いエネルギーにも 光は当たっているし、いずれ表出するものだと感じたから。この曲の奥のメロディ。

言葉にするとそんな感じ。絵はほとんど描いたことがないので幼稚な絵だと感じます。

後日、シベリウスの「樅の木」について少し調べてみましたら、
「長く厳しい冬の間、来るべき春の訪れを信じて、じっと耐える北国の「樅の木」…」
との解説がありました。

この「樅の木」に対する解説が、上述の

 …内部で溜まりながらも、止まってはいない対流するエネルギー。
…静かに熱い青い情熱のエネルギー。
白い一本のラインを青へ通したのは、今は溜まっている青いエネルギーにも
光は当たっているし、いずれ表出するエネルギーだと感じたから。

と通じるものがあるような気がしました。

もし、作曲家が伝えたかったのが「祖国の春の訪れを信じて耐える樅の木」のイメージで
それを受け取れていたとしたら、とても嬉しい事ではないでしょうか。

作曲家の気持ち…目に見えない人の気持ちが受け取れたとか、寄り添えたとか、
そんなような気がするときって嬉しいですよね。

この絵の作者の話は続きます・・・

 「うまく描こうとしない
こんな風に描いたら人からこう思われるんじゃないか…なんて
  考えずに、感じたままをただただ色に落とすことに専念する。」
それが3色パステルアートの本質なり、真髄なり、魅力だと思っています。 

私は子供の頃から、絵を描きたい欲求はあったものの、ありがちな理由から、 努力した事と言えば、できる限り描かない(描かないで済ませる)ことでした。
悲しいかな、記憶に残っている一番幼い頃、4歳頃にはすでに絵を描こうと していませんでした。どうしても描かなければいけないときは、できるだけ先生などの指導どおりに描く。
そうすれば通知表では5や4。つまり上位20%で叱られない、バカにされることもない。絵に関する自分や自分の世界は、つまらないものになっていました。

だから、今は逆に、
「うまく描こうとしない」
「こんな風に描いたら人からこう思われるんじゃないか…なんて考えずに
感じたままをただただ色に落とすことに専念する。」を努力しています。

「人からこう思われるんじゃないか…」というのは、自分が自分自身をそう思ってること。

実際、今回の絵も、描きはじめてから、

描く自分と、
絵を評価する自分、
評価されて”しゅん”とする自分、
しゅんとした自分を励ます自分、
じゃあ、無難に描いてお茶を濁せばいいとする自分、
それをしたら3色パステルアートの、このかけがえのない大切な時間が
まったく無意味になるよと伝える自分、、、、

そんないろんな自分が頭をよぎる一瞬がありました。
それが思い浮かんでいるときは、過去、私がそれらの言動を学ぶ元になった いろんな人の姿も同時にチラついています。

振り払い、「うまく描こうとせず、感じたままを色に落とす」と心がけました。

内に籠った青いエネルギーや、それに触発された赤いエネルギーは悲しみを持ちながらも、濁らず美しいものでした。
前半の心地よい風や光のような流れはそよぎ続けていました。

描き上げて、離れて見た自分の絵は、まるで日本語を学びたての人の漢字みたいなたどたどしさを感じました。

それで良い、それが今の自分の表現力なのだと思いました。

それでも、感じたままを表現することに専念したからこそ、作曲家が伝えたかった「樅の木」のイメージを受け取れていたかもしれない。

耳は悪くない、感受性も悪くない、あとは出力の部分(描画力)だけ(笑)と夢想する楽しみや期待が持てました。

色に変換して表現しようとする試みによって、音や曲や曲の主題や、作曲家の想いをよりよく受け取れるなら、情操を育む、とても素敵なことだと思います。

作曲家と聴き手との媒介役であるピアニストの磯崎真奈美さんの表現力の賜物でもあります。
実際、今回の磯崎さんの演奏はどこかわかりやすく伝えてくれようとしていたように思いました。

これからも3色パステルアートはいろんな人たちの心に小さな温もりであったり、大きな喜びをわきおこさせてくれると思います。

3色パステルアート主催の浜端望美さんと私が出会ったのは実践心理学講座です。